地域の固有性から普遍性への橋渡し (กิ๊กใหญ่)
私(わたし)たちが考(かんが)える地域研究(ちいきけんきゅう)で大切(たいせつ)なことは、対象地域(たいしょうちいき)の固有性(こゆうせい)を括(くく)り出(だ)すことは調査研究(ちょうさけんきゅう)の重要(じゅうよう)な作業(さぎょう)の1つではあるけれど、そのこと自体(じたい)を地域研究(ちいきけんきゅう)の目的(もくてき)にしないということです。地域(ちいき)に固有(こゆう)の価値観(かちかん)があることを認(みと)めることは、世(よ)の中全体(なかぜんたい)にたった1つの価値観(かちかん)しか認(みと)めないという態度(たいど)を批判(ひはん)する意義(いぎ)があります。ただし、対象地域(たいしょうちいき)の固有性(こゆうせい)を強調(きょうちょう)しすぎると対象地域(たいしょうちいき)の特殊性(とくしゅせい)が強調(きょうちょう)されてしまい、結局(けっきょく)「世(よ)の中(なか)はいろいろある」としかならないし、「変(か)わったもの探(さが)し」をすれば、見(み)る側と見られる側(がわ)を切(き)り離(はな)すことになりかねません。
特定(とくてい)の地域(ちいき)に関(かん)するディ(でぃ)ープ(ぷ)な知識(ちしき)をたくさん持(も)っていることは、私(わたし)たちが考(かんが)える地域研究(ちいきけんきゅう)の目指(めざ)すものではありません。特定(とくてい)の地域(ちいき)で実際(じっさい)に観察(かんさつ)されることからその地域(ちいき)の特徴(とくちょう)を明(あき)らかにすることに加(くわ)えて、そこから地域(ちいき)を超(こ)えて適用(てきよう)できる普遍性(ふへんせい)の高(たか)い法則(ほうそく)を見(み)つけて、ある地域(ちいき)から世界全体(せかいぜんたい)や人類全体(じんるいぜんたい)のあり方(かた)に考(かんが)えを巡(めぐ)らせるのが私(わたし)たちの目指(めざ)す地域研究(ちいきけんきゅう)のあり方です。地域(ちいき)の固有性(こゆうせい)の括(くく)り出(だ)しを最終目的(さいしゅうもくてき)とする地域研究(ちいきけんきゅう)を「地域(ちいき)だけの研究(けんきゅう)」と呼(よ)ぶならば、私(わたし)たちが目指(めざ)す地域研究(ちいきけんきゅう)は「地域(ちいき)からの研究(けんきゅう)」と呼(よ)ぶことができます。どちらも「地域研究(ちいきけんきゅう)」ですが、その向(む)かう先(さき)はまるで違(ちが)っています。
「地域研究(ちいきけんきゅう)は特定(とくてい)の地域(ちいき)しか見(み)ない」という批判(ひはん)を聞(き)くことがありますが、「地域(ちいき)からの研究(けんきゅう)」が目指(めざ)しているのはそのような地域研究(ちいきけんきゅう)ではありません。人類学(じんるいがく)の例(れい)をとれば、特定(とくてい)の村(むら)の研究(けんきゅう)を通(つう)じて人類全体(じんるいぜんたい)を研究(けんきゅう)する人類学(じんるいがく)を「村(むら)から人類(じんるい)への研究(けんきゅう)」とするならば、私(わたし)たちが考(かんが)える地域研究(ちいきけんきゅう)は「地域(ちいき)から世界(せかい)への研究(けんきゅう)」と呼(よ)ぶことができます。これは「から」の前(まえ)の言葉(ことば)で名付(なづ)けるか後(あと)の言葉(ことば)で名付(なづ)けるかの違(ちが)いに過(す)ぎず、人類学(じんるいがく)が村(むら)を語(かた)りながらも人類全体(じんるいぜんたい)を語(かた)ろうとしているのと同(おな)じように、地域研究(ちいきけんきゅう)も地域(ちいき)を語(かた)りながら世界全体(せかいぜんたい)を語(かた)ろうとしているのです。
「世界(せかい)の各地域(かくちいき)には地域(ちいき)ごとの固有(こゆう)の文化(ぶんか)があるのだから、もともとヨ(よ)ーロッパ(ろっぱ)社会(しゃかい)をもとに組(く)み立(た)てられた既存(きそん)の学問的(がくもんてき)ディシプリン(でぃしぷりん)やその学説(がくせつ)を拒絶(きょぜつ)して、世界各地(せかいかくち)の固有(こゆう)の文化(ぶんか)や論理(ろんり)を個々(ここ)に括り出(だ)すことが地域研究(ちいきけんきゅう)の使命(しめい)だ」と考(かんが)える人(ひと)がいるかもしれません。私(わたし)たちは、地域(ちいき)ごとに固有(こゆう)の文化(ぶんか)があることには同意見(どういけん)ですが、上(うえ)の記述(きじゅつ)の後半部分(こうはんぶぶん)には異(こと)なる考(かんが)えを持(も)っています。既存(きそん)の学問的(がくもんてき)ディシプリン(でぃしぷりん)は歴史的(れきしてき)に特定(とくてい)の時代(じだい)の特定(とくてい)の地域(ちいき)の事例(じれい)をもとに組(く)み立(た)てられ、そのため現代世界(げんだいせかい)の諸問題(しょもんだい)に必(かなら)ずしも十分(じゅうぶん)に対応(たいおう)しきれていない部分(ぶぶん)があると思(おも)っています。しかし、私(わたし)たちは既存(きそん)の学問的(がくもんてき)ディシプリン(でぃしぷりん)を拒絶(きょぜつ)して一(いち)から論理(ろんり)を組(く)み立(た)てるのではなく、世界各地(せかいかくち)の事例(じれい)を扱(あつか)うことで既存(きそん)の学問的(がくもんてき)ディシプリン(でぃしぷりん)を鍛(きた)え上(あ)げて、普遍性(ふへんせい)の高(たか)い学問的(がくもんてき)ディシプリン(でぃしぷりん)を生(う)み出(だ)す共同作業(きょうどうさぎょう)に加(くわ)わっていると考(かんが)えています。わかりやすく言(い)えば、「ヨ(よ)ーロッパ(ろっぱ)起源(きげん)の論理(ろんり)をアジア(あじあ)にそのままあてはめても通用(つうよう)しない」と言(い)ったとき、それに続(つづ)く言葉(ことば)は「だからヨ(よ)ーロッパ起源(きげん)の論理(ろんり)はいらない」ではなく、「こう修正(しゅうせい)すればヨ(よ)ーロッパ(ろっぱ)にもアジア(あじあ)にも当(あ)てはまる論理(ろんり)になる」ということです。(「ヨ(よ)ーロッパ(ろっぱ)」や「アジア(あじあ)」を1つのものと扱(あつか)っているのは話(はなし)をわかりやすくするためです。)