江南から興った中国唯一の王朝、明▼
モンゴル族が支配した元朝では、14世紀中ばより、白蓮教一派の紅巾軍などの反乱が起き
る。1368年、現、南京を根拠地としていた朱元璋(初代皇帝・太祖洪武帝、1328-98、在位1368
-98年)が明を建てる。この明朝(1368-1644)は、江南から興って中国を統一した、唯一の王
朝であった。その後を建文帝(在位1398-1402)が継ぐと、靖難の変という4年にわたる内戦が
起きる。それに勝利した永楽帝(在位1402-24)が皇位を簒奪し、第3代皇帝となる。
永楽帝は、モンゴルに5回にわたって遠征したり、鄭和に7回(1回は宣徳帝)にわたって南海
遠征をくりかえすなど、積極的な対外政策を実行する。また内政面では、大運河の修築や北
京への遷都のほか、文化事業にも意をそそぐ。しかし、宦官(かんがん)を重用したため、宮廷
内で力をつけた宦官の専横によって、明朝の滅亡を早めたとされる。1449年、正統帝(第6代
在位1435-49、第8代在位1457-64)がモンゴルとの戦いで捕虜になるという珍事(土木の変)が
発生し、その後明の対外拡張は終わりを告げ、民衆生活の安定の時代となる。
16世紀に入ると、明は内に宦官の専横、外に北虜南倭に苦しめられる。明は中期以降、北
方のモンゴル族の侵入になやまされ、万里の長城を修築して北辺に大軍をおくなど、さまざま
な防衛策をとる。また、長江河口以南、福建、広東の沿岸部では16世紀倭寇(実は後述の通
り中国人の海寇)の活動が激しくなる。これらへの対応におわれて軍事費の負担は過重とな
り、その滅亡につながる。
宋代からの流通経済の発展によって、農業における茶、木綿などといった商品作物の生産
が広がり、落花生、玉蜀黍、タバコなども栽培されるようになる。明代に、綿布の生産は飛躍
的に増大し、穀倉地帯だった浙江は綿花の生産の中心地となり、かわって米作が湖広地方で
発展する。しかし、原料の綿花は華北、華中の広範囲から集められ、綿製品は全国的に流通
した。そうしたなかで、山西商人や新安商人といった、全国規模で活躍する大商人も生まれ
た。
こうした経済の発達を支えたのが通貨としての銀の流通にあった。明初から流通してきた銅
銭や宝鈔(ほうしょう)という紙幣は宣徳年間(1426-35)ごろから使用されなくなり、銀が事実上
の通貨となっていった。15世紀中ごろからは、租税の一部を銀でおさめる地域が出はじめ、銀
はヨーロッパや日本との交易によって大量に中国に持ち込まれる。
明は、元のネットワークから離脱したが内陸国家として閉じこもることなく、宋元以来の海上
交易の発展を受け止める。洪武帝は、即位の前年太倉の黄渡鎮に市舶司を設置する。1370
(洪武3)年、黄渡鎮の市舶司が首都南京の近くに位置するという理由から閉鎖して、新たに広州
(広東)、泉州(福建)、明州(淅江、港は寧波、元の慶元)の港に市舶司を設置する。
このように、明は市舶司に管理させながら内外商人の海外交易を認めていたが、早くも1371
(洪武4)年には海禁令を発して自国民の海外交易を禁止し、そして1374(洪武7)年には市舶司
を廃止して、いっさいの民間交易を禁止してしまう。
他方、明は中華帝国の華夷秩序である朝貢と冊封の体制の再建を目指す。洪武帝は、新王
朝の成立を告げ、朝貢を呼びかける使節をアジアの各地に派遣する。それに応えて、東アジア
の日本、琉球、朝鮮、東南アジアの暹羅(シャム)、蘇門答刺(スマトラ)、南インドの西洋瑣里
(チョーラ)などといった、元代以来の10数か国が朝貢を承服してきた。
明代270年間におけるアジア諸国の入貢回数(814回)は、『明史』外国伝によると、琉球171
回、安南(ベトナム)89回、烏斯蔵(チベット)78回、吟密(ハミ)76回、占城(チャンパ)74回、暹羅
(シャム)73回、土魯蕃(トルファン)41回、爪哇(ジャワ)37回、撒馬児穿(サマルカンド)36回、朝
鮮30回、瓦刺(オイラート)23回、満刺加(マラッカ)23回であり、日本は19回、蘇門答刺(スマトラ)
16回、真臘(カンボジア)14回、渤泥(ブルネイ)8回、三仏斉(パレンバン)6回となっている。
進貢使船を入れる港として、日本船は寧波、琉球船は泉州(後に福州)、東洋・西洋諸国(マラ
ッカ海峡を境として、海域を東洋・西洋に分けていた)船は広州と定められた。
▼朝貢交易、表文と勘合、進貢物と附帯貨物▼
明の時代は、一方で民間交易を禁止しながら、他方で朝貢交易を拡大するという、海禁=朝貢
システムと呼ばれる、中国に歴史のなかでも特異な時代であった。それは、約200年ほど続くこ
ととなるが、それは同時に倭寇や在外中国人の密貿易やポルトガル人の進出によって掘り崩
されていく時代でもあった。
朝貢交易は、明初から中期までの約1世紀半にわたる、中国の主要な対外交易形態であっ
た。1586(万暦14)年刊の『続文献通考』には、「貢舶は王法の許すところ、市舶の司るところ、乃
ち貿易の公なり。海商は王法の許さざるところ、市舶の経ざるところ、乃ち貿易の私なり」と書か
れているように、貢舶=進貢使船以外は密輸船あるいは海賊船となった。この明代の朝貢交易
は、歴代中国王朝のなかで大規模なものとなった。
進貢使船は、正規の使者であることの証として、表文と勘合を携えることになっていた。表文
は朝貢国が中国皇帝に差し出す外交文書、勘合は中国が朝貢国に頒布する査証であった。
勘合は、明朝皇帝の改元ごとに新規発行・支給された。日本の例では6回にわたり頒布された。
勘合は1船ごとに1枚ずつ持参し、その裏面にはその船の進貢物や附帯貨物の数量、そして正
使以下、乗船者の人数を逐一明記することとなっていた(佐久間重男著『日明関係史の研
究』、p.6、吉川弘文館、1992。なお、以下、同書に負うところが多い)。
元は外国交易を管理するために、半印勘合簿の制度を実施していたが、それを明は朝貢使
節であるかどうかを識別するための、勘合符とした。それを持参した割り符が、明の役所が保
存する割り符と一致した場合に、入港は許可された。この勘合符は、1383(洪武16)年に暹羅(シ
ャム)への支給にはじまり、その後50数か国に順次与えられるようになった。朝鮮や琉球など
は、中国への君臣関係をわきまえていたため勘合は支給されず、表文だけで入貢することが
できた。日本に対しては、永楽2(応永11、1404)年にはじめて支給される。
進貢使船には、正使・副使の他、通事・頭目・従人もしくは蕃伴人などが乗船していた。この
蕃伴人と呼ばれるもののなかには、相当数の商人が含まれていた。また、進貢使船には本来
的な国王の進貢物と、貢使の自進物やその随伴者の附帯貨物とが積載されていた。自進物を
含む附帯貨物は「附至番貨」とか「附搭貨物」と呼ばれ、積載交易品の大部分を占めていた。
そして、そのなかには単なる商人たちの交易商品が含まれていた。
進貢物に対して、明は代価を支払わないことが原則となっていたが、朝貢国の王や妃に賞
賜、貢使一行に給賜が行われ、それらが実質的な代償となった。それら主な品目は、金銀・銅
銭・鈔錠・絹織物・陶磁器から、冠帯衣靴までに及び、そのうち絹織物が大宗品目であった。ま
た、それらの品目や数量は、進貢物のそれらに応じて決定された。
貢使やその随伴者の附帯貨物について、明の政府はその持ち主の意志に関わりなく、その
必要に応じて、附帯貨物である商品を抽買すなわち官収買した。この官の専買制を建て前とし
て、官が必要としない附帯商品について、民間人との交易を許した。それに対する関税(抽分)
は明初以来、免除されていたが、明代中期の弘治年間(1488-1505)、明の政府が収入増加を
図ろうとして、それを徴収するようになる。
なお、明の政府が附帯貨物を抽買あるいは官収買するのは、進貢使船の滞在や宿泊、飲
食、接待などの諸経費を捻出するためでもあった。そのため、附帯貨物はその大部分が明の
政府の独占買い上げとなった。
▼朝貢の衰退―明の財政難、朝貢の利益薄―▼
蕃貨=外国品の収買価格は、明初の洪武8年(1375)から発行がはじまった大明宝鈔という紙
幣で算定されていたが、実際はその価格に見合う代替物が支給された。こうした清算方法は、
明にとって有利な設定であった。永楽帝の外征などによって鈔が乱発され、鈔価が激しく低下
する。それに伴って、附帯貨物の実質価格が低下するようになり、貢使やその随伴者にとって
官収買は採算が合わないものとなり、朝貢そのものの必要性が失われるようになる。
附帯貨物の民間交易がどのように行われたかは明らかではないが、「法制的には市舶司所
在地および京師の会同館を中心に、官設の牙行[交易仲介業]を仲介にして行なわれた。その
趣旨は両者公平の立場で交易させることにあったが、開市期間の制限(会同館は5日間)、違禁
貨物の取締り、物価の估定など官府の干渉が強く、純然たる統制交易であった。この民間取引
において……明朝側から頒付された給賜物ならびに給価を用いて、その必要とする物貨を購
入することは許されていた」という(佐久間前同、p.15)。
1509(正徳4)年、明は増収を図るため、附帯貨物から関税を徴収したことにあわせて、広州
への進貢使船でもない外国の民間商船を認め、それに課税することとなった。1517(正徳12)
年、関税を20パーセント、そして関税の中央と地方の配分を定める。なお、1520(正徳15)年、ポル
トガル使節団との紛争から、広州での民間交易は再び禁止されるが、それ以外の港での密貿
易が広がることとなる。
こうした転換は、一方では市舶司などの官吏たちの利殖を促し、他方では沿海民の密貿易
をいたく刺激し、富裕市民の密貿易への関与を促した。「こうして、明朝政府と沿海地の交易
企業家との対立はしだいに激化の方向をたどり、政府の海禁強行策に対する批判をよび起し
た」とされる(佐久間前同、p.36)。
特に、永楽・宣徳年間(1403-35)、鄭和の遠征もあって多数の国々が朝貢してくるが、正統
年間(1435-49)以後になると南海諸国の入貢船が著しく減少し、弘治・正徳年間(1488-1521)
には僅かに日本・琉球をはじめ、占城・暹羅・爪哇・満刺加などの伝統的な朝貢国だけになり、
その入貢回数もはなはだ減少する。こうした朝貢回数の減少や、朝貢諸国の減少とその特定
化は朝貢交易の曲がり角となった。
その主な原因は、すでに述べたように中期になると、朝貢国側にとって明の政府の買い上げ
による交易差益が少なくなり、それでありながら民間人との交易には規制を加えられていたた
め、初期のような大きな利益が見込めなくなった。それに加え、北方のモンゴル族の活動は明
の政治や財政に大きな負担をもたらし、朝貢交易に大きな制約を加えることとなった。特に
1449(正統14)年、正統帝が捕虜になるという土木の変を契機にして、明の国力は著しく消耗し
てしまい、対外交渉は一挙に後退する。
佐久間重男氏は、明の朝貢交易を、次のように総括している。「朝貢貿易における明初の
『厚往薄来』(貢舶の進貢物は薄くして、中国の賞賜は厚くすると)の方針は、中期以降に経費の
節減、支出の抑制に転じたばかりでなく、弘治・正徳年間になると、朝貢貿易における初期の関
税免除から抽分法の制定に転じ、貢舶に関税の徴収を行なうようになり、それもかなり高率なも
のであった。そればかりでなく、国初以来禁止していた外国商船にも関税を課すことによって、中
国への入港を認めることとなったのである。
これは、明朝が南海貿易の利を従来知らなかったわけではなく、国初以来華夷の分による政
治関係を重視して、その体面保持を先とし、経済はそれに附随するものとして官収買を建て前
としたが、中期以後は財政窮乏化に対する応急策として抽買に加えて新規に抽分を課し、その
体面よりもむしろ実質的な利益に表面化したことが窺い知られる。
このような明朝の政策的変化は、中国民間人を強く刺激するところとなり、民間の密貿易をま
すます助長させるとともに、ついに隆慶元年(1567)には明初以来約2世